平成22年2月
パソコンにかかわってきました、もろもろの事、記憶をたどりながら、2000年に、経済、文化の視点からまとめてみました。ご興味いただけたら幸いです。
写真等につきましては、色々とネットにアップされてますので、省略いたします。
また、記憶があいまいな部分あり、誤記あれば、ご容赦いただけたら幸いです。
更に第二報としての2000年から2010年までにつきましては、インターネットを含めて激動の時代であり、詳細は準備中です。
更に、長年、品質管理に従事し、商品品質に関しての欧米視点、国内視点との文化を含めた違い、ならびに消費者、生産者にとっての品質などについて、準備中です。
是非、参考にされて色々な視点あること、感じていただけたら、これほどうれしいことはありません。
1. はじめに
情報・通信産業の市場規模が30兆円に達し,自動車産業のそれを越えたとの記事を数年前に知りました。
生活の豊かさ,便利さを求め,考えることができる人間は自然科学の力を利用して,人間の機能(走る,見る,聞く等)を高める道具を作り出してきました。
この考えることを手助け出来る道具が作れないか,ぼんやりとではありますが,以前から興味がありました。
たまたま,この道具を作る産業の勃興期に出会うことができ,当初から興味深く注視してきました。
以下に,私が体験したこと,学んだことのみについて,1970年代の第1期と1990年代の第2期に区切って,当時の資料をもとに,述べてみます。
年代については,一部,記憶が不明瞭の箇所もあります。ご容赦、お願いします。
2.興味を持ったいきさつ及び当時の状況
国内環境――― 第1期時代
1971年、某鉄鋼に入社当時,仕事の関係から電機業界の方々と話をする機会を得ました。半導体産業について何も知らなかったのですが,工場を見学したり,お話を聞くうちに,米国にはTI社(キルビー特許を保有している企業),ナショナル セミコンダクタ社,フェアーチャイルド社等の半導体専業メーカーが存在することを知りました。そして,この分野の将来は,単なるハードの半導体の製造産業のみにとどまらず,多くの周辺産業分野を巻き込んだ巨大な産業に成長するとの予感を感じました。
その頃,社内の業務用(ユニバック)コンピューターを用いて,重回帰分析の計算を行う機会を得ました。数10秒間で,計算が終了することを経験し,戦慄するほど驚きました。
この2つの出来事から,この道具を作る産業に大変興味を持ちました。
数値計算を行うには,当時ではFORTRANを学習する必要があり,初めてソフトウエアーを勉強しました。
このソフトを創る作業とは,複雑な論理の絡まりを時間を止め,息を詰めて,思考過程を一歩一歩,紙に記述する作業であることと知り,さらに興味が高まりました。
後で知ったことですが,このフォン ノイマン型の手続きが必要な言語を使用するかぎり,知力の固まりであるソフトには,物の製造と同様に高い工業価値を有することを感じました。
このころから,何とかしてコンピューターを個人所有したいという思いが募りました。
しかし,数億円もする業務用の計算機を個人で購入することは,不可能でしたが,DEC社のミニコンPDP11,富士通のFACOM-MATE等は数百万のオーダー(当時の月給は6万円)でしたので,購入できなくもない金額なので,真剣に悩みました。
この頃,米国においてIC製造技術を用いたMPUが開発・販売されているとの新聞記事に接しました。いずれにしても,日本では情報が全くないので,最新の情報を得るため,CQ誌の読者の欄から7人の仲間と一緒に,共同で3年間,米国からBYTE誌,INTERFACE誌およびDr DOBS JOURNAL(歯科矯正士のための本?なぜか解りませんがこんな変な併題がついています。)をAIR便にて購入することにしました。
これらの雑誌から,INTEL社(フェヤーチャイルド社からスピンアウトしたDr. NOYCE 設立 約120人)が1974年にMPU8080を発表したこと,およびMITS社がこのMPUを用いてALTAR(アルテア)を発表していることを知りました。その価格は確か$400であり,この程度の価格であれば,買えるなと思いました。
写真に示しますように,ALTARにはPDP-11のようにCRT,キーボードはなく,全面に設置してある入力SWで直接,MPUレジスターを操作する代物でした。この装置はキット販売でした。組み立ては購入者が行うので,このように安価な価格が設定できたのでしょう。この頃,モトローラ社(かって,バッテリーを作っていた企業)が6800,モステクノロジー社が6502と,米国の半導体企業がMPUを発表していました。私は,機能的に洗練された6800に魅力を感じました。
APPLE社は,6502を用いた初代APPLEをINTERFACE誌に発表していました。この初代APPLEはキーボード一体型であり,側壁が木製と,高級感を漂わせた高価な完成品であったと記憶しています。
当時の雑誌を紛失し残念な思いです。その他に,高価なPOLY-88等の完成パソコンが数社から発売されていました。
当時では,S-100ピンバス,S-50ピンバス等を介して機能拡張できるバス拡張方式とマザーボード上にすべての部品が組み込まれたAPPLEの2種類が主に市場に出回っていました。
この様に,1970年代は,米国において各種MPUおよびこれを用いた初期のパソコンが多く発売されていました。
私は,将来の機能拡張性を考慮して,S-50ピンバスから構成され,かつ洗練されたレジスターを有する6800を使用していたSWTP社の組み立てキットを購入することを決めて,個人輸入をすることに挑戦しました。
しかし,当時は東西冷戦の時代であり,商品代金の送金および輸入等で困難を極めました。
当時は,よほどのことでない限り,個人で米国からこのような品物を輸入することは,ありませんでした。
特にこういった製品は,対共産圏輸出禁止品目(ココム規制)であったので,国内税関で製品の足止めを受け,乙仲業者に何度となく使用目的を示す説明書を送付して,約2.5年かけてようやく米国から輸入しました。日本でも数社の企業や個人が,このような製品を輸入していたことを後で知りました。私のように興味を持てる日本人がいることを知り,意を強くしました。
SWTPC社から購入した製品には,電話帳3冊分程の分量のMANUALが付属し,IC,抵抗等のすべての部品を基盤にハンダ付けを行う,完全な自作組み立て製品でした。米国は国土が広く、多民族国家なので通信販売が発達してることを知りました。
このため,ユーザーからの問い合わせに対応する管理コストを下げるため,MANUALについては,完全であることが要求されることを学びました。このことから,製品の価値は,その直接の機能価値にとどまらず,このようなMANUAL等の間接価値も非常に大事であることを学びました。
パソコン本体と当時,開発されたばかりのSHUGART社製3.5インチFD装置も購入しました。FDの円盤定点位置(○形の穴)を検出して磁気セクターを作るハードセクター方式のFD装置を購入しました。私は,FD装置が高速回転する場合,回転ぶれが生ずると考え,ハードセクター方式のFD装置を選択しました。しかし,技術の進歩は予想したより早く,FD装置は、すべてHDと同様にソフトセクター方式になっています。しかし、いまではFD装置は過去の物となっています。
これから,技術的なハードルが高くても,数年先を見通した技術方式が生き残ることを学びました。
人は自分の知的生産活動の手助けを行う優秀な助手であることをパソコンに期待するわけですから,それに応えるには,当時のMPUは余りにも非力でした。非力であるからこそ人は,MPUの機能・能力の更なる飛躍的な向上を求めます。このため,将来この産業分野は大きな市場を形成すると,多くの人々が考えていました。
BASIC言語は,1963年にダートマス大学で作られたインタープリター言語です。1973年頃には既に,WANG社が自社開発したBASIC言語を,自社の専用パソコンに搭載して販売していました。ALTAIR用のBASIC言語については,かの有名なゲイツ氏が発表していました。MPU6800向けには,INTERFACE誌がBASIC言語をソノシート媒体にて無償配布していました。
このBASIC言語に大変,興味を覚えたので,SWTP社からパソコンを購入する際に,この言語も一緒に購入しました。今の金額に換算すると,車が購入できるほどの散財をしました。10数年後に日本国内でBASIC言語が爆発的に普及したことを考えると,国内にも私のような性向をもつ人々がいることを知り,少し安心しました。
BASIC言語については,その機能限界を知るにつれ,急速に興味がなくなりました。
一方,国内でも,ようやく1976年に西氏を中心としてI/O誌が発行されたり,かの有名なソード社から(椎名氏 設立,その後、プロサイド社へ)PIPS,APPLE用のビジカルク等の表計算ソフトが発表されてきました。
表計算ソフトの概念は,米国のある大学生が財務計算を行うために必要に駆られて,表形式で計算を行う画期的な概念を生み出したのだと,後で知りました。この事業の先見性を見通したNECの組み立て事業部(営業部ではない。)が,かの有名なTK-80キットを,絶妙な価格設定を行って国内市場に販売してきました。つまり、10万以下であれば、企業にもよりますが、上位の決済は不要です。
これにより,今日でもNECは,幾多の危機を乗り越え,パソコン販売量では,トップグループを保持しています。しかし、DELLの出現により、いずれ、このような販売形態が主流になると私は、予想してました。
この頃から東京へ出張の都度,どんなに忙しくても必ず秋葉原へ行って,情報を得ては,この分野の動向に興味を募らせていました。秋葉原について、色々な事柄が頭をよぎりますが、またの機会にします。
世界の秋葉原を散策すると,今,この分野では,何が起こっているか肌で感じることができます。
米国のINTEL社に対抗するため,国内外の大手電機メーカー,半導体メーカーは挙ってMPUを発表してきましたが,すでに市場には8080用の機械語,高級言語,応用ソフトが市場に出回っていました。INTEL社の卓越したMARKETINGにより,今日では,INTEL社のMPUの設計様式がDe Facto スタンダードの地位を獲得しています。INTEL社の初代4004、8080の開発には日本人(ビジコン社 嶋氏)が主要な役割を担ったにもかかわらず,この分野では、全く残念な結果、つまり米国に完敗を記しました。
このことから,米国は,エジソン・ベル型の社会,
つまり,企業が物を作るのではなく,市場にない新しい物を作るために企業が作られる社会であることを知りました。
同時に,社会における大学の役割および科学技術を習得した技術者に対する社会の評価・期待に対し欧米と大きく異なり、現在の日本の大学は企業のための巨大な予備校になっています。
明治以降、国内巨大企業は、品質問題に対応するため、この優秀な人材を用いて、恣意的に対応してきました。
公害問題など、これらの案件をやり過ごす巨大企業は、優秀な人材を大学に求めてきました。
最近の三菱自動車、パロマ工業、トヨタ自動車など、案件の処理に失敗した企業は、個々の企業に責務あるのではなく、社会と企業とのかかわり方に問題の本質が隠されてるものと、考えてます。
欧米と比較して、歴史の浅い国内大学は、その社会的責務はどこにあるのか、考えさせられました。
当時,この分野での代表的な見本市はWCCFでした。ここで,各社のパソコンが発表されていましたが特に,コモドール社のPET(商品名)が,最も注目されていました。このPETは,CRT,本体,キーボード一体型の洗練されたパソコンでした。
この頃から,国内では第一次パソコンブームが起こり,各社各様のパソコンが市場に出てきました。この間の事情については,一般によく知られているので,省略します。
米国では,1981年に,パソコンブームに危機感を持ったIBMが,The PC(MPUはINTEL社の8088,OSはマイクロソフト社のMS/DOS)を発表していました。このパソコンの構成は,マザーボード上にISAバス等を介して,拡張性を確保する設計となっていました。このアーキテクチャーをIBMが戦略的判断のもと,完全公開しました。その後,再び独自バス路線へ軌道修正しましたが既に,公開された仕様のパソコン(互換機と呼ぶ)は一人歩きしていました。
優れた設計仕様であれば、その技術情報を公開することにより,業界の圧倒的な支持を得ることを学びました。現在においても、継承されています。
このことが,技術情報が公開された互換機と反対路線を選択したMAC(APPLE社のパソコン商品名)の,その後の明暗を分けたものと考えられます。日本を除く世界中の関連企業が,完成互換機や各種互換ボードを市場に出してきました。しかし,表示言語は,英語ですので,国内市場には,それほど出回らなかったと記憶しています。
その後,高解像度グラフィックの開発により,CRT上で,画像を表示することが可能となりました。しかし,1980年代は,仕事が大変に忙しくなり,この分野の動きは掴めていませんでした。INTEL社が,その後に市場に提供してきたMPUは,過去の資産を生かすためとは思いますが,その設計思想には,理解できない部分が多く,興味が急速に無くなっていました。
3.第2期時代
1990年頃と思いますが,日本IBMが当時,既に世界のDe Facto スタンダードであった自社のパソコンのグラフィック表示方法用いて,ソフトのみで日本語フォントを表示するOS(OPERATING SOFT),つまりDOS/Vを発表しました(記憶が曖昧で申し訳ありません。)。
この新聞記事を知ったとき,MPUの処理能力が向上し,またRAMが安価になれば全てのパソコンはこの方式になると確信しましたので,この分野の動きには,再び注意していました。
このIBM_DOS方式であれば,英語圏のみならず異なる言語圏においても,言語表示部分のフォント変更のみで各国の言語仕様に対応出来るため,汎用性が飛躍的に増大します。当時では,日本語フォントをROMから読み出して表示する方式が,国内では主流でした。持ちうる時間のすべてを使用して,米国から雑誌を入手したり,米国出張の折り,また東京出張の都度,情報を得ていました。
既に米国では,一般のスーパーストアーで,食料品売り場と併設して大量のパソコン用印刷用紙が店頭に並んでいました事を米国主張時に見て、驚愕の念を抱きました。
1992年に,マイクロソフト社がWINDOW 3.1を発表したので,俄然興味が復活しました。
米国では,ゲートウエー社,コンパック社,DIGITAL社,マイクロン社,PACKERD BELL社,DELL社等から完成互換機が販売されていましたが,1970年代にパソコンを自作したことを思い出し再び,自作に再挑戦しました。
互換機は,筐体のビスの位置,マザーボードのサイズ,取り付け位置等が規格化されているので,必要な機能基盤等を購入すれば,1990年代の始めにおいて既に,自作は誰でも簡単に出来る時代になっていました。
自作パソコンを作った20年前と比較し,(1)MPUのレジスターが当時の8ビットから16ビットへと拡張されていることおよび動作周波数の大幅な向上(2)OS分野については,マイクロソフト社が一人勝ちし,MS/DOSがOS市場を制覇していました。IBM互換機は,仕様が完全公開されているため,多くの新進企業がこの規格に沿った部品を製造していました。
このように,各機能部品を入手できれば,自作も可能であること等から再び,自作を行うことにしました。
OSとして,米国から英語WINDOWS 3.1(正式な名前は,WINDOWS 3.1 FOR WORKGROP)を購入しました。
その後,国内で発売された日本語WINDOWS 3.1と米国で発売されたそれを比較すると,大きな違いに気づきました。米国で発売されたWINDOWS 3.1には,ネットワーク接続用の機能がOS本体の中に組み込まれているのに対し,国内で発売されたそれには,その機能が省略されていました。ノベル社から有名な通信システムソフト,NETWAREが発表されていました。
これらのことから米国でのパソコンの運用形態は,相互に接続して情報を有機的に共有するネットワークシステムであることを知り,大きな脅威を感じました。
この概念を正確に理解出来なかったことが,日本が現在この分野で,米国から大きく水をあけられた要因の一つに数えられるでしよう。
戦史や軍事技術にも興味がありましたので,ミッドウエー海戦,ガダルカナルをめぐる数度のソロモン海戦での日本海軍の敗退と重なる部分を感じました。
光学レンズを用いた光学的視認に代わって電磁波を利用したレーダー方式による工学的視認機器を,個々の単体機器としてではなく,勝つためにそれらの機器を戦術的な体系にまとめ上げる米国の工学的なセンスを感じました。
1970年代と大きく異なるのは,表示機能,音源機能,NET接続機能,外部周辺機器との接続機能およびHD,CD-ROM等の各機能の開発・製造に特化した多くのハード製造業とパソコンを単なるワープロ代わりにすることなく,計算,通信,画像,音楽表現,データベース等の分野について特色ある米国のソフト企業が育っていることでした。しかし,ソフトに,期待した動作を行わせるには未だ,パソコンのハードの能力は以前と同じく,余りにも非力でした。
使用されているOSであるWINDOWSは,RAMが高価であるため,安価なHD領域を仮想メモリーとして設計されています。従って,HDの動作速度の遅さがパソコンのレスポンスの大幅な低下をもたらしています。
安価なRAMが登場し,これに対応した新しい概念にもとづいたOSが開発されれば,パソコンの動作速度の大幅な向上が期待できると思います。今、SSDの勃興期のようですね。
1991年当時,既に米国では,AOL,COMPUSERVE等のBBSが商業的に成功を納め,また,FRYS,COMPU-USA等の巨大なパソコン部品量販店が既に存在していました。
国内でも,日商岩井/富士通/COMPUSERVEの合弁会社であるNIFTY-SERVEやNECのPC-VAN等のBBSが盛んになっていました。私は,1992年に,NIFTYとCOMPUSERVEに入会しました。
米国出張時、彼らの執務部屋を見る機会を得ました。
社員は端末を介して情報を共有して業務を進めている様を見て、国内企業の社員の机上の煩雑さと比較し、ホワイトカラーの生産性の違いを、実感させられました。
国内において製造現場(主に,鉄鋼産業分野)のNET化は,専用の高価な装置を用いて,米国より数十年早く行われましたが,事務・技術・研究部門では大きく遅れをとってしまいました。
ここに,先ほど述べた非常に安価なパソコンの相互通信機能を利用して,各種データ・情報収集,解析等について,それらを体系的にまとめ上げる能力に優れた米国の工業文化の豊かさを感じます。近代国家への道筋が異なった日米両国の工学にたいする社会の期待・評価の違いを感じます。
現在,基幹ソフトの全てが米国製であることを考えると,残念です。
NIFTYやCOMPUSERVEを利用して,やっと,個人が全体と直接に時間・空間の制約を越えて意思交換ができる時代が到来したことを実感しました。多くの人々が集うフォーラムをまとめるシスオペと知り合う機会を得て,彼らの知識の豊かさおよび能力の高さに驚くとともに,集団の力強さを感じました。
この分野の世界最大の見本市は,COMMDEX/HALL IN BEGAS です。この見本市には,世界中から,約20万人(その内,アジア系の人種は,約15%)が来場します。ハード(周辺機器,各種部品,全て),ソフト(OS,通信,アプリケーション,全て)に関わる全ての企業が製品を出展していますので,この分野が何処へ向かっていこうとしているのか,彼らの真剣な話しぶりから,感じ取れます。もちろん、休暇をとり、参加しました。
この見本市の活況をみると,こういった製品を購入する企業(主に,生産性の向上を目的とする)および個人(主に,知的生活の充実を目的とする)の需要がますます旺盛であることを実感しました。
4.最後に
かって40年前,一部の工学マニヤ向けの世界で繰り広げられてきたパソコンの機能・能力拡張競争でしたが,この考えることができる道具の社会に与える潜在的なインパクトを感じ取り,また巨大な市場規模を予見して,当時から多くの企業が参入してきました。
特に,通信機能を用いた利用形態は,私の予想を超えて,驚異的に発達しました。
今日のネット社会は目を見張るばかりの発達です。
インターネットの勃興期に出会わせましたが、これは又の機会に述べます
その結果,この道具を作るハード企業,これに命を吹き込むソフト企業,この道具を利用して新しい経営形態を模索する企業,さらに,この道具を利用して飛躍的に生産性を向上した企業等が現れ,今後とも、ますます興味がつきません。
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